Opinion

2018/10/14

体育会系重視って時代錯誤じゃない?

 僕は就職活動をしている時からこの多様化、変化の時代に体育会系をもてはやすなんて、時代遅れも甚だしいと思っていた。その考えは30を過ぎた今でも変わっていない。

体育会に所属していた人は体力がある。それは認めよう。おそらく連日の残業も彼らなら体力でカバーできることだろう。(僕はさっさと帰りたいけれど。)

また、体育会は縦社会だ。上下関係の中で生きてきた彼らなら、上司、先輩の指示には忠実に従う事だろう。きっと彼らは目上の人に言われた通り仕事をすることだろう。そう昨日までと同じように。

サラリーマンは本来、同じ仕事をやるんだったらいかに効率的に仕事をして、作業時間を短縮するかを評価されるハズだ。その方が残業代を支払わなくても良いし、より多くの仕事を振れるからね。なのに、多くの会社ではどうやら違うようである。とにかく従順に言われたことをやるのが評価されるらしい。たとえ非効率な方法で、時間がかかったとしても。

自衛隊や警察、消防など、やることが明確で、行う仕事も基本毎日同じという職業ならば、体育会出身の人は大活躍することだろう。体力があるし、上の人の言いつけ通り仕事をするのだろうから、管理職も指揮監督するのも容易だろう。断わっておくけれど僕らは彼らの仕事をディスっているのではない。思ったままに書いているだけだ。

勿論、自衛隊や警察、消防も日夜新しいことに遭遇することだろうけれど。行う事業は通常の事業会社より単純明快だろう。僕たちが安心して生活出来ているのは、彼らが毎日愚直に、一定水準を維持して仕事をしてくれているからだろう。

ところが、現在は多様化、変化の時代である。多くの事業会社は昨日と同じことをしていても生き残れないのである。これは事務系公務員とかにももしかしたら当てはまるのかもしれないけれど。

技術革新も目まぐるしく起こっている。今までなかった商品やサービスが現在どんどん生まれてくる。そしてこれは今後ずっと続くだろう。

そして同時に、今まであったサービスが無価値になることもこれからは頻繁に起こる事だろう。 

新しい商品やサービスは昨日と同じことをやっていても生まれない。もし企業の採用担当の方が見ていてくれたら是非考えていただきたい。これからの時代は、体力があって従順な人材だけでなく、より多様な考え、価値観を持った人材を確保する必要があるのではないだろうか。

 




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2018/07/15

学校の先生が言ってたことなんて気にする必要はない

 タイトルの通り学校の先生が言ってた価値観、人生観なんて全く聞き入れる必要はない。理由は彼らが学校という狭い世界しか知らない、歪な環境で生活している人種だからだ。


 考えても見て欲しい。彼らは学校という閉鎖社会しか経験していないのである。学校の先生になるには学校を卒業する必要がある。学校を卒業して、学校に就職する。同僚も同じような境遇の人が多数である。彼らの知っている世界は学校の世界だけなのである。


 彼らは多様性を良しとしない。イメージして欲しい。自分が属しているグループに変わり者、アウトライアーズがいたらそのチームのまとまりは悪くなるだろう。それは学校でのクラス運営においても同じなのである。そもそも狭い世界でしか生活したことがない人種に多様性なんて理解できないのである。


ところが、会社においてはその変わり者やアウトライアーズが結果的に利益を生むことがあるので、会社はそれを許容するだろう。実際に組織に変革をもたらすのはそういった人種である。だから彼らをクビにはしないし、過剰な同調圧力を(公には)かけない。もっとも、あまりにも仕事ができない、やらない場合は物凄く厳しい仕打ちを受けることになるけれど。


 一方、学校のクラスで問題がある生徒をクビにはできない。が、同調圧力をかけ、従わなければ村八分(無視)するよう、学校の先生が周りの生徒に仕向けることはあり得る。直接的な表現をせず、上手い具合に。子どもを誘導するのなんてかんたんでしょう?まぁ手がかかるからね。変わり者は。


 クラス運営においてみんな同じ(考え方が共産主義みたいで気持ち悪い)が彼ら教師のモットーである。 なぜなら管理が簡単だから。


そして、教師は教師の人間性を読み取ってしまう精神年齢が高い生徒は接するのに気を使うから嫌う。また、勉強があまりにもできる生徒も嫌う。なぜなら彼ら教師より勉強ができてしまうと、間違いを指摘されてしまう恐れがあるからである。


 また、狭い世界しか見てこなかった人は才能がある人をそもそも理解できない。そして理解できないから怖がる。彼ら教師は才能がある人も結果的に嫌うことになる。



そして、勉強があまりにできない生徒も個別に対応しなければいけない面倒があるので嫌う。あと団体行動ができない生徒も嫌うな。慣例的にある行事に積極的に参加しない生徒(僕みたいな)ってどこにでもいるじゃないですか?


 彼らの思考回路は共産主義そのものなので、良い意味でも悪い意味でもアウトライアーを嫌うのである。みんな同じが素晴らしいのである。


思いつく限り教師の悪口を書いてみたが、概ね当たっていると思う。何が言いたいかと言うと、学生生活のまさに延長の人生、本当にどうしようもなく狭い世界でしか生きてこなかった教師の薄っぺらな考察、批判なんて聞く価値も、気にする価値もない。もしあなたがそんな取るに足らない事で悩んでいるなら、馬鹿馬鹿しいからやめなさいって事である。そんな事に自分のリソースを割くくらいなら、自分の好きな事をやってた方が幸せですから。





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2018/07/08

君がモテないのは外見や金のせいじゃない

 よく彼はイケメンだから、奴は金持ちだからモテる、俺はイケメンじゃないから、金持ちじゃないからモテないと愚痴っている男性を見かける。僕の意見ではこれは半分正解、半分不正解である。


イケメンは顔面偏差値が高いからモテるのではない。顔面偏差値が高いことから来る自信によってモテるのである。これ本当である。


大学生まですごくモテていたイケメンが、社会人になって以降、全くモテなくなる現象を多く見るのはその為だ。新しい環境に適応するのに精一杯で、自信を保てないからモテなくなり、それがさらに自信を削がれてしまうのである。まさに非モテスパイラルである。


逆にイケメンじゃなくても恋人が途切れない人も社会人になると見かけるようになる。彼らはイケメンじゃないが、金持ちだからモテるのだろうか? 上記の問いの答えは半分正解、半分不正解である。資産の多寡のみがモテにつながっているのではない。潤沢な資産が彼らに自信を与えて、結果的に彼らがモテるようになったのだ。


最も、イケメンでも、金持ちでもないけれど、モテている人が一定数いるわけなので、モテには外見も、資産の多寡ももしかしたら全く関係ないのかもしれない。


僕は現在31歳、もう少しで32歳のオッサンだ。僕は26から28歳の時に所謂モテ期を迎えた。自分で言うのもどうかと思うけど、同世代の中で結構モテていた方だと思う。僕は外見も年収も至って普通で、イケメンでも金持ちでもないが、なぜかその時期はモテた。


当時の僕は少々仕事にも慣れて余裕があった。また、こっちの方が重要だろうけれど、僕は超がつくほどマイペースな人間である(ノロマという意味ではない、僕はむしろせっかちである)。僕は社会に出ても大して染まらず、学生時代のゆるふわな一面を色濃く残している。今振り返ると、何物にも染まっていない、染められない僕は自信に満ち溢れている、と彼女たちに映ったのかもしれない。


そして僕は28歳から32歳間近の現在に至るまで、今の彼女と付き合っており、今年結婚する予定である。余談だがあと10歳、歳をとった後ならば大して珍しくはない歳の差だが、31歳現在の年齢にしては、所謂歳の差婚である。因みに歳の差婚にありがちなデキ婚ではない。


僕達男性陣はたとえイケメンじゃなくても、金持ちじゃなくても、自信があるように女性陣に見せなければならない。 ただし自信があるように見せるのに周りに横柄な態度をとってはいけない。社会人になってからそれをやると逆に自信のなさの裏返しだと認識されてしまうからである。(事実そうだろう。)


僕たちが女性陣に自信があるように見せるには、ただ素の状態を保持していれば良い。変にカッコつける必要はない、背伸びをし過ぎたモノを身に着ける必要もない。そもそも弱い人は、社会に出た後に自己を保ち続けることが出来ない。自己を保つことが出来た時点で弱い人間ではないのである。

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2018/06/10

継続のプロセスを考察する

強い目標(≠高い目標)を立てれば続けられる

 僕はあまり意志が強くない人間である。何かをやろうと思っても大体のことは三日坊主である。小さい時からそうで、大人になってもそれは変らなかったようである。一方で明確な目標があると不思議と継続できているのを発見した。

継続こそ力なり

 上記は誰でも聞いたことがある有名な諺である。僕はこの諺は概ね正しいと思っている。正しいことを正しい方法で続けているのならば、ある程度の結果をだせる。ただしそんなことはわかっているけれど、難しいのである。

 例えば筋トレがそうである。どんな人でも正しい方法でやり続ければ引き締まった身体、逞しい身体を手に入れることが出来る。ただ、このやり続けるのがとても難しいのである。僕もポッコリお腹をなんとかしたくて、筋トレを気が向いたときにやるようにはしているけれど、継続してやっているとは言い難い状況である。ポッコリお腹をなんとかしたいと思っているのは本当だけれど、多分強くは考えていないのだろう。

 一方、僕の先輩の一人に女性にモテたい一心で筋トレを継続的に行い、マッチョな身体を手に入れた人がいる。現在30代半ばになっているけれども今でも結構モテている様である。動機はどうであれ、継続して筋トレをやっている事に対して、素直にすごいなと思う。やはり継続は力なりと言うのは正しい様である。

 勉強だってそうである。学校の勉強なんて、学部レベルくらいまでは完全に詰め込み教育である。詰め込みという事は既に決まっている事象や判明している事案を取り上げて学ぶという事である。言葉を変えると、新しい発見や新しいものを創造する行為ではないのである。であるならば、継続して行えば「学校」の勉強に関しては、誰でもできるようになるということである。

 しかしながら、それは難しいのである。なぜなら、多くの人はそこに目標が見いだせないからである。僕も学生時代、テスト前に短期集中で勉強したけれど、継続して勉強していない。今思うと非常に勿体無いことをしていた様に思う。だって林修氏が言っていたけれど、勉強って贅沢だって意味が今だったら理解できるからね。

 どうやら、上記の諺は、資産運用においても正しい様である。僕は積立NISAを使って低コストのインデックスファンドを毎月積立買付しているんだけれど、資産残高が幸運にも徐々に増えてきている。毎年の年間利益率は平凡なんだけれど、金額が大きくなってきたことに伴い、また昨今の株高の波もあり、毎年積みあがっていく含み益の金額は僕のサラリーマンとしての月給を軽く上回るようになってきた。とても嬉しい限りである。

 積立投資は、数ある投資方法の中で一番簡単な方法だと言われている。しかし、挫折する人も一定数いる。にもかかわらず継続できているのは、僕にはいつかセミリタイヤしたいという強い目標があるからである。因みに僕は貯金が大の苦手だ。理由は貯金しても殖えないのを知っているからモチベーションが湧かないからである。

 上記を踏まえると、人は強い目的意識を持つと、たとえそれが多少の苦痛を伴うとしても、継続できるようである。おそらく世の中の成功している人は、強い目標→継続→継続することによって結果が出る→モチベーションが上がる→目標をより強く意識する→・・・・という工程を繰り返して成功を収めているのだろう。書いていて納得した。

とは言え、サウザー氏及びアナキン氏からVoicyにて、ご指摘いただいた通り、自分でビジネスモデルを構築しないと、自分の商品を持たないと、サラリーマンを卒業するのは難しそうである。したがって、積立投資は単なる貯金の一手段だと割り切り、ビジネスモデル構築、商品開発に注力する方が優先順位は高いんだろうな。お二人には厳しくも、ありがたいお言葉をいただいた事にお礼申し上げます。



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2018/06/03

人間関係≠利害関係

人間関係≠利害関係を理解しよう

 学生の時に一緒にいる人との付き合いと社会に出てからのそれは何が違うか? 前者は人間関係、後者は利害関係という点が異なっていると僕は考えている。まぁ全部がこれに当てはまるわけではないと思うけれども。

利害関係は利害がなくなれば終わらせることができる関係

 僕は多くの場合、後者の方が楽だと個人的に考えている。利害関係はお互いの利害がなくなれば関係を続ける必要がないからである。 仕事関係で付き合う人と、利害関係ではなく、人間関係を築こうと頑張ってしまうと、上手くいっていれば良いけれどそうでない場合は、とても辛いものになるだろう。絶対やめた方が良いと僕は思う。

 例えば、会社の同僚が風邪で体調を崩したとして、お見舞いにわざわざ行くだろうか?ほとんどの人は行かないだろう。これはそんなことをしても何の利益にもならないからである。一方、自分の大切な人が風邪で体調を崩したらどうだろうか?多くの人はお見舞いに行くのではないだろうか?たとえそれが何の利益を生まなかったとしても。

 また、もし取引先が倒産したとしよう。取引先が倒産したとして、あなたはそれ以降もそこで働いていた人と付き合おうとするだろうか? 僕だったら多少の同情はしても、付き合おうとは微塵も思わないだろう。とは言っても、日本人にあるあるのハッキリとあなたとはもう関係ないとは言わず、スーッとフェイドアウトする行動をとるだろうけれども。

人間関係は利益度外視

 一方で人間関係となるとそう簡単な話ではない。なんたって利益度外視で付き合うのである。親、兄弟、恋人、配偶者や子ども、親友以外と利益度外視で付き合えるだろうか?答えは否だろう。勿論、上記の人以外にも分け隔てなく平等に付き合う事ができる聖人君主もいるのだろう。が、それは少数派だろう。

 僕は大切な人に対してならば、たとえ自分の得にならなかったとしても良いと思うことができる。多くの人もそうだろう。だけれど、それ以外の人に対しては、そんなことは微塵も思わない。お金であればたとえ1円でも無駄になるとわかっていて使いたくないし、時間であればたとえ1分、1秒でも無駄になるとわかっていて使いたくないのである。だって自分の利益にならないのだから。

 僕は仕事関係で付き合う人は一人の例外なく利害関係のみで付き合うようにしている。飲み会は必要なもの以外欠席するし、彼らとプライベートでの付き合いは皆無である。そもそも会社の外で仕事関係の人の顔なんて見たい人がいるのだろうか?

 全部の飲み会を欠席しないのは、それをやると仕事がやりづらくなるから、それだけの理由である。個人的には、飲み会に参加しないことに対して、一々目くじらを立てる人なんて二流以下の人だと思っている。だけれど、みんながみんな一流の人ではないのである。サラリーマンとして働いていれば、そういう人とも上手く付き合わなければならないのである。だから必要経費としてたまに参加するのである。

 結論を言うと、僕達はもし息苦しさを感じずに快適に生きたいならば、人間関係と利害関係の違いを理解し、使い分けをしながら生きる必要があるという事である。ある人と利害関係のみで付き合うと決めたならば、自分なりの線引きを決めて、上手く付き合えば良い。人間関係を築くと決めたならば、全力でその人と付き合えば良いのである。



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